- おれは活(イ)きた。
闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。併し其は、蒼黒い靄の如く、たなびくものであつた。
巖ばかりであつた。壁も、牀(トコ)も、梁(ハリ)も、巖であつた。自身のからだすらが、既に、巖になつて居たのだ。
屋根が壁であつた。壁が牀であつた。巖ばかり――。觸(サハ)つても觸つても、巖ばかりである。手を伸すと、更に堅い巖が、掌に觸れた。脚をひろげると、もつと廣い磐石(バンジヤク)の面(オモテ)が、感じられた。
纔かにさす薄光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟(イハムロ)の中に見えるものはなかつた。唯けはひ(けはひに傍点)――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。
巖ばかりであつた。壁も、牀(トコ)も、梁(ハリ)も、巖であつた。自身のからだすらが、既に、巖になつて居たのだ。
屋根が壁であつた。壁が牀であつた。巖ばかり――。觸(サハ)つても觸つても、巖ばかりである。手を伸すと、更に堅い巖が、掌に觸れた。脚をひろげると、もつと廣い磐石(バンジヤク)の面(オモテ)が、感じられた。
纔かにさす薄光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟(イハムロ)の中に見えるものはなかつた。唯けはひ(けはひに傍点)――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。
- 思ひ出したぞ。おれが誰だつたか、――訣つたぞ。
- おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦(シガツヒコ)。其が、おれだつたのだ。
歡びの激情を迎へるやうに、岩窟(イハムロ)の中のすべての突角が哮(タケ)びの反響をあげた。彼の人は、立つて居た。一本の木だつた。だが、其姿が見えるほどの、はつきりした光線はなかつた。明りに照し出されるほど、纒つた現(ウツ)し身(ミ)をも、持たぬ彼(カ)の人であつた。
唯、岩屋の中に矗立(シユクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。
唯、岩屋の中に矗立(シユクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。
- おれの名は、誰も傳へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛(イト)しいおれの名は、さうだ。語り傳へる子があつた筈だ。語り傳へさせる筈の語部(カタリベ)も、出來て居たゞらうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しく〳〵と胸を刺すやうだ。
- ――子代(コシロ)も、名代(ナシロ)もない、おれにせられてしまつたのだ。さうだ。其に違ひない。この物足らぬ、大きな穴のあいた氣持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現(ウツ)し身の人間どもには、忘れ了(ヲフ)されて居るのだ。憐みのないおつかさま。おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死(トモジ)にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子(アハツコ)は、罪びとの子として、何處かへ連れて行かれた。野山のけだものゝ餌食(ヱジキ)に、くれたのだらう。可愛さうな妻よ。哀なむすこ(むすこに傍点)よ。
- だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が傳らない。劫初(ゴフシヨ)から末代まで、此世に出ては消える、天(アメ)の下(シタ)の青人草(アヲヒトグサ)と一列に、おれは、此世に、影も形も殘さない草の葉になるのは、いやだ。どうあつても、不承知だ。
- 惠みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでゞない此世かも知れぬ。
- くそ――外(ソト)の世界が知りたい。世の中の樣子が見たい。
- だが、おれの耳は聞える。其なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり瞑(ツブ)つて居たおれの目よ。も一度くわつと*1(ミヒラ)いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、……土龍の目なと、おれに貸しをれ。
聲は再、寂かになつて行つた。獨り言する其聲は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであらう。丑刻(ウシ)に、静謐の頂上に達した現(ウツ)し世(ヨ)は、其が過ぎると共に、俄かに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えさうだつた四方の山々の上に、まづ木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿のながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和國中(クニナカ)の、何處からか起る一番鷄のつくるとき(ときに傍点)。
曉が來たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸(ネヤド)から、ひそ〳〵と歸つて行くだらう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。午前二時に朝の來る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思はずに、起きあがる。短い曉の目覺めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを繼ぐのである。
山風は頻りに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋(ヒシ)めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひつそ(ひつそに傍点)としたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて來た。
岩窟(イハムロ)は、沈々と黝(クラ)くなつて冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞つて垂れてゐる。
曉が來たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸(ネヤド)から、ひそ〳〵と歸つて行くだらう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。午前二時に朝の來る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思はずに、起きあがる。短い曉の目覺めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを繼ぐのである。
山風は頻りに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋(ヒシ)めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひつそ(ひつそに傍点)としたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて來た。
岩窟(イハムロ)は、沈々と黝(クラ)くなつて冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞つて垂れてゐる。
- 耳面刀自(ミヽモノトジ)。おれには、子がない。子がなくなつた。おれは、その榮えてゐる世の中には、跡を貽(ノコ)して來なかつた。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳へる子どもを――。
岩牀(ドコ)の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その眞裸な骨の上に、鋭い感覺ばかりが活きてゐるのであつた。
まだ反省のとり戻されぬむくろ(むくろに傍点)には、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた、彼の人の出來あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髓の心(シン)までも、唯彫(ヱ)りつけられたやうになつて、殘つてゐるのである。
まだ反省のとり戻されぬむくろ(むくろに傍点)には、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた、彼の人の出來あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髓の心(シン)までも、唯彫(ヱ)りつけられたやうになつて、殘つてゐるのである。
萬法藏院の晨朝(ジンテウ)の鐘だ。夜の曙色(アケイロ)に、一度騒立(サワダ)つた物々の胸をおちつかせる樣に、鳴りわたる鐘の音(ネ)だ。一(イツ)ぱし白みかゝつて來た東は、更にほの暗い明(ア)け昏(グ)れの寂けさに返つた。
南家の郎女は、一莖の草のそよぎでも聽き取れる曉凪(アカツキナ)ぎを、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもせずに居る。
夜(ヨル)の間(マ)よりも暗くなつた廬(イホリ)の中では、明王像の立ち處(ド)さへ見定められぬばかりになつて居る。
何處からか吹きこんだ朝山颪(オロシ)に、御燈(アカシ)が消えたのである。當麻(タギマ)語部(カタリ)の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。姫は再、この老女の事を忘れてゐた。
たゞ一刻ばかり前、這入りの戸を搖つた物音があつた。一度 二度 三度。更に數度。音は次第に激しくなつて行つた。樞がまるで、おしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて來た時、ちようど、鷄が鳴いた。其きりぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。
南家の郎女は、一莖の草のそよぎでも聽き取れる曉凪(アカツキナ)ぎを、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもせずに居る。
夜(ヨル)の間(マ)よりも暗くなつた廬(イホリ)の中では、明王像の立ち處(ド)さへ見定められぬばかりになつて居る。
何處からか吹きこんだ朝山颪(オロシ)に、御燈(アカシ)が消えたのである。當麻(タギマ)語部(カタリ)の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。姫は再、この老女の事を忘れてゐた。
たゞ一刻ばかり前、這入りの戸を搖つた物音があつた。一度 二度 三度。更に數度。音は次第に激しくなつて行つた。樞がまるで、おしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて來た時、ちようど、鷄が鳴いた。其きりぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。
新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が來てゐた。けれども、頑(カタクナ)な當麻(タギマ)氏(ウヂ)の語部の古姥(フルウバ)の爲に、我々は今一度、去年以來の物語りをしておいても、よいであらう。まことに其は、昨(キゾ)の日からはじまるのである。




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