死者の書 - 6

門をはひると、俄かに松風が、吹きあてるやうに響いた。
一町も先に、固まつて見える堂伽藍――そこまでずつと、砂地である。
白い地面に、廣い葉の青いまゝでちらばつて居るのは、朴の木だ。
まともに、寺を壓してつき立つてゐるのは、二上山(フタカミヤマ)である。其眞下に涅槃佛(ネハンブツ)のやうな姿に横つてゐるのが麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に、乘りかゝつてゐるやうにしか見えない。こんな事を、女人(ニヨニン)の身で知つて居る訣はなかつた。だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合の、出來あがつて居たのは疑はれぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行つた。
此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日前(アト)であつた。まだあの日の喜ばしい騷ぎの響(トヨ)みが、どこかにする樣に、麓の村びと等には、感じられて居る程である。
山颪(オロシ)に吹き暴(サラ)されて、荒草深い山裾の斜面に、萬法藏院(マンホフザウヰン)の細々とした御燈(ミアカシ)の、煽られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な轉變(テンペン)に、目を*1つて居るだらう。此郷に田莊(ナリドコロ)を殘して、奈良に數代住みついた豪族の主人も、その日は、歸つて來て居たつけ。此は、天竺の狐の爲わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から殘つてゐる幻術師(マボロシ)のする迷はしではないか。あまり莊嚴(シヤウゴン)を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆られて、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものも、その供人(トモビト)のうちにはあつた。
數年前の春の初め、野燒きの火が燃えのぼつて來て、唯一宇あつた萱堂(カヤダウ)が、忽痕もなくなつた。そんな小な事件が起つて、注意を促してすら、そこに、曾て美(ウルハ)しい福田と、寺の創められた代(ヨ)を、思ひ出す者もなかつた程、それは、微かな遠い昔であつた。
以前、疑ひを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。當麻(タギマ)の村にありながら、山田寺(デラ)と言つたからである。山の背(ウシロ)の河内の國安宿部(アスカベ)郡(ゴホリ)の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其でも一時は、倶舍(クシヤ)の寺として、榮えたこともあつたのだつた。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舍をひろげ、住侶の數をお殖しになつた。おひ境内になる土地の地形(チギヤウ)の進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。さうなる筈の、風水(フウスヰ)の相(サウ)が、「まろこ」の身を招き寄せたのだらう。よし墓はそのまゝ、其村に築くがよい、との仰せがあつた。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。まろ子といふのは、尊い御一族だけに用ゐられる語で、おれの子といふほどの、意味であつた。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すやうな事が、起つたのである。
だが、さう言ふ物語りはあつても、それは唯、此里の語部(カタリベ)の姥(ウバ)の口に、さう傳へられてゐる、と言ふに過ぎぬ古(フル)物語りであつた。纔(ワヅ)かに百年、其短いと言へる時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考へると、同じ昔となつてしまつた。
旅の若い女性(ニヨシヤウ)は、型摺りの大樣な美しい模樣をおいた著る物を襲うて居る。笠は、淺い縁(ヘリ)に、深い縹(ハナダ)色の布が、うなじを隱すほどに、さがつてゐた。
日は仲春、空は雨あがりの、爽やかな朝である。高原(カウゲン)の寺は、人の住む所から、自(オノヅカ)ら遠く建つて居た。唯凡、百人の僧俗が、寺(ジ)中に起き伏して居る。其すら、引き續く供養饗宴の疲れで、今日はまだ、遲い朝を、姿すら見せずにゐる。
その女人は、日に向つてひたすら煇く伽藍の廻りを、殘りなく歩いた。寺の南境(ザカヒ)は、み墓山の裾から、東へ出てゐる長い崎の盡きた所に、大門はあつた。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立つて居る。丘陵の道をうねりながら登つた旅びとは、東の塔の下に出た。
雨の後の水氣の、立つて居る大和の野は、すつかり澄みきつて、若晝(ワカヒル)のきらしい景色になつて居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡(カタヲカ)で、ほのと北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の眞中に、旅笠を伏せたやうに見える遠い小山は、耳無(ミヽナシ)の山であつた。其右に高くつつ立つてゐる深緑は、畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安(ハニヤス)の池ではなからうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具山(カグヤマ)なのだらう。旅の女子(ヲミナゴ)の目は、山々の姿を、一つに辿つてゐる。天(アメノ)香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母(チヽハヽ)の育つた、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き來した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てゝ伸び上る氣持ちになつて來るのが抑へきれなかつた。
香具山の南の裾に輝く瓦舍(カハラヤ)は、大官大寺(ダイクワンダイジ)に違ひない。其から更に眞南の、山と山との間に、薄く霞んでゐるのが、飛鳥の村なのであらう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生ひ立たれたのであらう。この國の女子(ヲミナゴ)に生れて、一足も女(ヲンナ)部屋(ベヤ)を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎(カゲロフ)の立つてゐる平原を、此足で、隅から隅まで歩いてみたい。
かう、その女性(ニヨシヤウ)は思うてゐる。だが、何よりも大事なことは、此郎女(イラツメ)――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて來てゐるのである。其も、唯のひとりでゞあつた。
家を出る時、ほんの暫し、心を掠めた――父君がお聞きになつたら、と言ふ考へも、もう氣にはかゝらなくなつて居る。乳母があわてゝ探すだらう、と言ふ心が起つて來ても、却てほのかな、こみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづゝしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。かうして居て、何の物思ひがあらう。この貴(アテ)な娘御(ゴ)は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて、次第に首をあげて行つた。
二上山、あゝこの山を仰ぐ、言ひ知らぬ胸騷ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覺えた、今の先の心とは、すつかり違つた胸の悸(トキメ)き。旅の郎女は、脇目も觸らず、山に見入つてゐる。さうして、靜かな思ひの充ちて來る滿悦を、深く覺えた。昔びとは、確實な表現を知らぬ。だが謂はば、――平野の里に感じた喜びは、過去生(クワコシヤウ)に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは、未來世(ミライセ)を思ふ心躍りだ、とも謂へよう。
塔はまだ、嚴重にやらひ(やらひに傍点)を組んだまゝ、人の立ち入りを禁(イマシ)めてあつた。でも、ものに拘泥することを教へられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初(シヨ)重の欄干に、自分のよりかゝつて居るのに、氣がついた。さうして、しみと山に見入つて居る。まるで瞳が、吸ひこまれるやうに。山と自分とに繋(ツナガ)る深い交渉を、又くり返し思ひ初めてゐた。
郎女の家は、奈良東城、右京三條第七坊にある。祖父(オホチ)武智麻呂(ムチマロ)のこゝで亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は勇壯(ヲトコザカリ)には、横佩(ヨコハキ)の大將(ダイシヤウ)と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて(だてに傍点)者(モノ)であつた。なみ(なみに傍点)の人の竪にさげて佩く大刀を、横(ヨコタ)へて吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まださうした官吏としての、華奢な服装を趣向(コノ)むまでに到つて居なかつた頃、姫の若い父は、近代の時世裝に思ひを凝して居た。その家に覲(タヅ)ねて來る古い留學生や、新來(イマキ)の歸化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするやうなのとも、亦違うてゐた。
さうした闊達な、やまとごゝろの、赴くまゝにふるまうて居る間に、才(ザエ)優れた族人(ウカラビト)が、彼を乘り越して行くのに氣がつかなかつた。姫には叔父、彼――豐成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠くとも、姫などはさう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥(ダザイノソツ)のはなしい生活の裝ひとして、連れられて行つてゐた。宮廷から賜る資人・傔仗(トネリタチ)も、大貴族の家の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らされて、皆任地へついて行つた。さうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が來た。
寂かな屋敷には、響く物音もない時が、多かつた。この家も世間どほりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあつた。その西側に、小な蔀戸(シトミド)があつて、其をつきあげると、方三尺位な*2になるやうに出來てゐる。さうして、其内側には、夏冬なしに簾が垂れてあつて、戸のあげてある時は、外からの隙見を禦いだ。
それから外廻(ソトマハ)りは、家の廣い外郭になつて居て、大炊屋(オホヒヤ)もあれば、湯殿火燒(ヒタ)き屋なども、下人の住ひに近く、立つてゐる。苑(ソノ)と言はれる菜畠や、ちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であつた。
武智麻呂存生(ゾンジヤウ)の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして來てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて來たので、何となく其古い通稱は、人の口から薄れて、其に替る稱へが、行はれ出した樣だつた。三條七坊をすつかり占めた大屋敷を、一垣内(ヒトカキツ)――一字(ヒトアザナ)と見做して、横佩墻内(ヨコハキカキツ)と言ふ者が、著しく殖えて來たのである。
その大宰府からの音づれが、久しく絶えたと思つてゐたら、都とは目と鼻の難波(ナニハ)に、いつか還り住んで、遙かに筑紫の政を聽いてゐた帥(ソツ)の殿であつた。其父君から遣された家の子が、一車(ヒトクルマ)に積み餘るほどな家づとを、家に殘つた家族たち殊に、姫君にと言つてはこん來た。
山國の狹い平野に、一代々々都遷しのあつた長い歴史の後、こゝ五十年、やつと一つ處に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか整ふまでには、行つて居なかつた。
官廳や、大寺が、によつきり、立つてゐる外は、貴族の屋敷が、處々むやみに場をとつて、その相間々々に、板屋や瓦屋が、交りまじりに續いてゐる。其外は、廣い水田と、畠と、存外多い荒蕪地の間に、人の寄り付かぬ塚や岩群(イハムラ)が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が、大路小路を驅け廻る樣なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路(シユジヤクオホヂ)の植ゑ木の梢を、夜になると、*3鼠(ムサヽビ)が飛び歩くと言ふので、一騷ぎした位である。
横佩家の郎女(イラツメ)が、稱讃淨土佛攝受經(シヨウサンジヤウドブツセフジユキヤウ)を寫しはじめたのも、其頃からであつた。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心を饒(ニギ)やかにしたのは、此新譯の阿彌陀經一卷(イチクワン)であつた。
國の版圖の上では、東に偏(カタヨ)り過ぎた山國の首都よりも、大宰府は、遙かに開けてゐた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、この遠(トホ)の宮廷領(ミカド)を通過するのであつた。唐から渡つた書物などで、大宰府ぎりに、都まで出て來ないものが、なか多かつた。
學問や藝術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであつた。
南家(ナンケ)の郎女(イラツメ)の手に入つた稱讃淨土經も、大和一國の大寺(オホデラ)といふ大寺に、まだ一部も藏せられて居ぬものであつた。
姫は、蔀戸(シトミド)近くに、時としては机を立てゝ、寫經をしてゐることもあつた。夜も、侍女たちを寢靜まらしてから、油火(アブラビ)の下で、一心不亂に書き寫して居た。
百部は、夙くに寫し果した。その後は、千部手寫の發願をした。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉(モミヂ)して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は、晝も苑一面に鳴くやうになつた。佐保川の水を堰(セ)き入れた庭の池には、遣(ヤ)り水傳ひに、川千鳥の啼く日すら、續くやうになつた。
今朝も、深い霜朝を、何處からか、鴛鴦の夫婦鳥(ツマドリ)が來て浮んで居ります、と童女(ワラハメ)が告げた。
五百部を超えた頃から、姫の身は、目立つてやつれて來た。ほんの纔かの眠りをとる間も、ものに驚いて覺めるやうになつた。其でも、八百部の聲を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて來たやうに見えた。やゝ蒼みを帶びた皮膚に、心もち細つて見える髮が、愈々黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを厭ふやうになつた。さうして、晝すら何か夢見るやうな目つきして、うつとり蔀戸(シトミド)ごしに、西の空を見入つて居るのが、皆の注意をひくほどであつた。
實際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなつた。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自分たちのふがひなさ(ふがひなさに傍点)を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出來ように、と思ふからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に廣がつたのも、其頃である。屋敷中の人々は、上(ウヘ)近く事(ツカ)へる人たちから、垣内(カキツ)の隅に住む奴隷(ヤツコ)・婢奴(メヤツコ)の末にまで、顏を輝(カヾヤ)かして、此とり沙汰を迎へた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の郎女は氣むつかしく、外目(ヨソメ)に見えてゐたのである。
千部手寫の望みは、さうした大願から立てられたものだらう、と言ふ者すらあつた。そして誰ひとり、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は、益々透きとほり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。さうして、時々聲に出して誦(ジユ)する經の文(モン)が、物の音(ネ)に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。
去年の春分の日のことであつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は、此屋敷からは、稍坤(ヒツジサル)によつた遠い山の端(ハ)に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日(ラクジツ)は俄かに轉(クルメ)き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金(ワウゴン)の丸(マルガセ)になつて、その音も聞えるか、と思ふほど鋭く廻つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありと莊嚴(シヤウゴン)な人の俤が、瞬間顯れて消えた。後(アト)は、眞暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝(マサ)つて行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再來て、姫の心を無上(ムシヤウ)の歡喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日(チュウニチ)の夕方であつた。姫は、いつかの春の日のやうに、坐してゐた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた(ひよめいたに傍点)長い日の、後(ノチ)である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟した光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺(ハツシヤク)の鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹き捲く嵐――。
雲が切れ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時、男嶽・女嶽の峰の間に、ありと浮き出た 髮 頭 肩 胸――。 姫は又、あの俤を見ることが、出來たのである。
南家の郎女(イラツメ)の幸福な噂が、春風に乘つて來たのは、次の春である。姫は別樣の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして、日を數(ト)り初めて、ちようど、今日と言ふ日。彼岸中日、春分(シユンブン)の空が、朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて、歸ることの出來ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を寫し終へて、千部目にとりついて居た。
日一日、のどかな温い春であつた。經卷の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓(シトミド)の外には、しとと――音がしたゝつて居るではないか。姫は立つて、手づから簾をあげて見た。雨。
苑の青菜が濡れ土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立つて來た。
姫は、立つても坐(ヰ)ても居られぬ、焦燥に悶えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が來た。
茫然として、姫はすわつて居る。人聲も、雨音も、荒れ模樣に加(クハヽ)つて來た風の響きも、もう、姫は聞かなかつた。

死者の書 - 7

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