死者の書 - 7

南家の郎女の神隱(カミカク)しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、氣がつかずに居た。
横佩墻内(ヨコハキカキツ)に住む限りの者は、男も、女も、上(ウハ)の空になつて、洛中洛外を馳せ求めた。さうした奔(ハシ)り人(ビト)の多く見出される場處といふ場處は、殘りなく搜された。春日山の奧へ入つたものは、伊賀境までも踏み込んだ。高圓山の墓原も、佐紀の沼地・雜木原も、又は、南は山村(ヤマムラ)、北は奈良山、泉川の見える處まで馳せ廻つて、戻る者も戻る者も、皆空(カラ)足を踏んで來た。
姫は、何處をどう歩いたか、覺えがない。唯家を出て、西へと辿つて來た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教はらないで、裾を脛(ハギ)まであげた。風は、姫の髮を吹き亂した。姫は、いつとなく、髻(モトヾリ)をとり束ねて、襟から着物の中に、含(クヽ)み入れた。夜中になつて、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の竝んだ山の立ち姿がはつきりと聳えて居た。毛孔の竪つやうな畏しい聲を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であつた。其後、頻りなく斷續したのは、山の獸の叫び聲であつた。大和の内も、都に遠い廣瀬・葛城(カツラギ)あたりには、人居などは、ほんの忘れ殘りのやうに、山陰などにあるだけで、あとは曠野。それに――、本村(ホンムラ)を遠く離れた、時はづれの、人棲まぬ田居(タヰ)ばかりである。
片破れ月が、上(アガ)つて來た。其が却て、あるいてゐる道の邊(ホトリ)の凄さを照し出した。其でも、星明りで辿つて居るよりは、よるべを覺えて、足が先へと出た。月が中天へ來ぬ前に、もう東の空が、ひいわり(ひいわりに傍点)白(シラ)んで來た。
夜のほの明けに、姫は、目を疑ふばかりの現實に行きあつた。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占つて居るやうだつた。さう言ふ女どものふるまひに、特別に氣は牽かれなかつた郎女だけれど、よく其人々が、「今朝(ケサ)の朝目(アサメ)がよかつたから」「何と言ふ情ない朝目でせう」などゝ、そはと興奮したり、むやみに塞ぎこんだりして居るのを、見聞きしてゐた。
郎女は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂つた語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗(ニヌ)りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。さうして、門から、更に中門が見とほされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配に建てられた堂・塔・伽藍は、更に奥深く、朱(アケ)に、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかつた。其寂寞たる光りの海から、高く抽(ヌキ)でゝ見える二上の山。
淡海(タンカイ)公の孫、大織冠(タイシヨククワン)には曾孫。藤氏(トウシ)族長(ゾクチヤウ)太宰帥、南家(ナンケ)の豐成、其第一孃子(ダイイチヂヤウシ)なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行(ヰザ)り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女(イラツメ)のことである。順道(ジユンタウ)ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡(ヒラヲカ)の御神(オンカミ)か、春日の御社(ミヤシロ)に、巫女(ミコ)の君(キミ)として仕へてゐるはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の聲も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き臥しゝてゐる人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬやうに、おふしたてられて來た。
寺の淨域が、奈良の内外(ウチト)にも、幾つとあつて、横佩墻内(カキツ)と讃(タヽ)へられてゐる屋敷よりも、もつと廣大なものだ、と聞いて居た。さうでなくても、經文の上に傳へた淨土の莊嚴(シヤウゴン)をうつすその建て物の樣は想像せぬではなかつた。だが目(マ)のあたり見る尊さは唯息を呑むばかりであつた。之に似た驚きの經驗は曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と豪奢との違ひこそあれ、驚きの歡喜は、印象深く殘つてゐる。
今の太上天皇樣が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳(ハツサイ)の南家の郎女(イラツメ)は、童女(ワラハメ)として、初(ハツ)の殿上(デンジヤウ)をした。穆々(ボクヾヽ)たる宮の内の明りは、ほのかな香氣を含んで、流れて居た。晝すら眞夜(マヨ)に等しい、御帳臺(ミチヤウダイ)のあたりにも、尊いみ聲は、昭々(セウヽヽ)と珠を搖る如く響いた。物わきまへもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になつて生れたことよ」と仰せられた、と言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十(ハタチ)になつてゐた。幼いからの聰(サト)さにかはりはなくて、玉・水精(スヰシヤウ)の美しさが益々加つて來たとの噂が、年一年と高まつて來る。
姫は、大門の閾(シキミ)を超えながら、童女(ワラハメ)殿上(デンジヤウ)の昔の畏(カシコ)さを、追想して居たのである。長い甃道(イシキミチ)を踏んで、中門に屆く間にも、誰一人出あふ者がなかつた。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔(ツヽマ)しく併しのどかに、御堂々々を拜(ヲガ)んで、岡の東塔に來たのである。
こゝからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考へ浮べることも、しなかつたであらう。まして、家人たちが、神隱しに遭うた姫を、探しあぐんで居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下(モト)から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現(ウツ)し世(ヨ)の目からは見えぬ姿を惟(オモ)ひ觀(ミ)ようとして居るのであらう。
此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝(ジンテウ)の勤めの間も、うとして居た僧たちは、爽やかな朝の眼を*1いて、食堂(ジキダウ)へ降りて行つた。奴婢(ヌヒ)は、其々もち場持ち場の掃除を勵む爲に、ようべの雨に洗つたやうになつた、境内の沙地に出て來た。
そこにござるのは、どなたぞな。
岡の影から、恐る頭をさし出して問うた一人の寺奴(ヤツコ)は、あるべからざる事を見た樣に、自分自身を咎めるやうな聲をかけた。女人の身として、這入ることの出來ぬ結界を犯してゐたのだつた。姫は答へよう、とはせなかつた。又答へようとしても、かう言ふ時に使ふ語には、馴れて居ぬ人であつた。
若し又、適當な語を知つて居たにしたところで、今はそんな事に、考へを紊されては、ならぬ時だつたのである。
姫は唯、山を見てゐた。依然として山の底に、ある俤を觀じ入つてゐるのである。寺奴(ヤツコ)は、二言(コト)とは、問ひかけなかつた。一晩のさすらひでやつれては居ても、服裝から見てすぐ、どうした身分の人か位の判斷は、つかぬ筈はなかつた。又暫らくして、四五人の跫音が、びたと岡へ上つて來た。年のいつたのや、若い僧たちが、ばらと走つて、塔のやらひの外まで來た。
こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人は(ニヨニン)は、とつとゝ出でお行きなされ。
姫は、やつと氣がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍らまで來た。
見れば、奈良のお方さうなが、どうして、そんな處にいらつしやる。
それに又、どうして、こゝまでお出でだつた。伴の人も連れずに――。
口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめい、貴い女性をいたはる氣持ちになつて居た。
山ををがみに……。
まことに唯一詞(ヒトコト)。當の姫すら思ひ設けなんだ詞(コトバ)が、匂ふが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下(ボンゲ)の家々の語とは、すつかり變つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其うへ、語其ものさへ、郎女の語が、そつくり寺の所化輩(ハイ)には、通じよう筈がなかつた。
でも、其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が、其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に氣のふれた女、と思はれてしまつたであらう。
それで、御館(ミタチ)はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問ふのだよ――。
をゝ。家はとや。右京藤原南家……。
俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのが、あとから後から登つて來た僧たちも加つて、二十人以上にもなつて居た。其が、口々に喋り出したものである。
ようべの嵐に、まだ殘りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小晝(ビル)に、又風が、ざはつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山にかけての尾根(ヲネ)々々にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方(コナタ)にも小櫻の花が、咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では、誰となく、こんな事を考へはじめてゐた。此はきつと、里方の女たちのよく(よくに傍点)する、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ、習(ナラハ)しである。春秋の、日と夜と平分(ヘイブン)する其頂上に當る日は、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送つて行く女衆が多かつた。さうして、夜に入つてぐたになつて、家路を戻る。此爲來りを何時となく、女たちの咄すのを聞いて、姫が、女の行(ギヤウ)として、この野遊びをする氣になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ、考へに落ちつくと、ありやうもない考へだと訣つて居ても、皆の心が一時、ほうと輕くなつた。
ところが、其日も晝さがりになり、段々夕光(ユフカゲ)の、催して來る時刻が來た。昨日は、駄目になつた日の入りの景色が、今日は中日(チユウニチ)にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて居た。

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